再生・共生の原理を求めて 令和5年12月7日更新
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国営昭和記念公園は、東京都の立川市と昭島市にまたがる多摩地区にある国営の公園である。

「緑の回復と人間性の向上」をテーマに昭和の末期に建設された公園で、自然的な環境の中で国民が健全な心身を育み、英知を養う場として提供されている。散策して気づくことは、180ヘクタールの広大な公園の舞台で動めいている自然界の神秘的な現象の素晴らしさである。
「再生と共生」という自然界の素晴らしい現象が満ちている。
公園の樹木は四季の変化につれて芽を出し蕾を膨らませ花を咲かせる。花が散ると青々と葉を茂らせて、幹を太らせ枝を伸ばす。やがて、紅葉し葉を落すと、再び、次の四季の変化の準備を始める。この変化の過程で樹木の生き方と人間の生活は深く関わりを持っている。
人は、花咲く季節や落葉の季節には自然のもたらす美に癒やされ、緑茂る季節には新鮮な空気が供給され、やり甲斐と活動への闘志を与えられる。公園の自然は1年を通してわれわれに多くの恩恵をもたらしてくれる。しかも、この恩恵を毎年繰り返して与えてくれる。
昭和の末期に提供された国営昭和記念公園も、30年を超える平成の歳月にわたり、多くの人々に親しまれて、テーマである「緑の回復と人間性の向上」に寄与してきた。人工的につくられた公園であるが、古い時代の武蔵野の自然を存分に取り入れ、自然につくられた公園のごとく演出している仕組みが公園を訪れる人々を満足させ、楽しませてくれる。
再生と共生の教え
国営昭和記念公園には、自然界の基本原理である「再生の原理」と「共生の原理」が満ち溢れている。戦後の日本や世界が、成長という言葉のもとに置き去りにした基本原理をそこに見つけることができる。自然の中での「再生の原理」や「共生の原理」を具体的な現象を通して観察し体験すると、戦後の日本社会の構築プロセスで行った多くの行為の中にも、多くの間違いがあったことを教えられる。更に、最近の日本社会で行われている行為や考え方の間違いについても気づかされ、今後、どのように修正していくべきかが悩ましくなる。
「現在と将来の生」に備えて、自然界に存在するすべての生き物が、絶えず種々の環境に対応しながら、最適化と合理性を飽くことなく追求し、「持続可能な環境の維持」を求めて、世代を超えて永遠に生き続けるために、この基本原理の下に活動し続けている。人類もその生き物に属し、その一部の役割を担い活動している。しかも、その原理が不変の基本原理ではないということをも認めながら活動を続けている。
公園の生きものや樹木、草花などの自然界の現象を観察していると、のどかな平和と合理的、効率的な自然界の現象に支えられた豊かさを感じ取ることができる。些細な争いや略奪があるにもかかわらず、生きる喜びと楽しみ、将来への夢を教えてくれる。自然の四季の変化に対応して、数週間から数日の短い期間で毎年繰り返す草花の生命が、土や水などの役割をも含めて、「持続可能な環境の維持」に関係する基本原理を我々に教えてくれる。
人間の社会に限って考えてみても、一回り大きな自然界の基本原理である「再生の原理」や「共生の原理」の教えにならって、健全な社会、平和な生活環境を目指し、どの国の国民もみんなが揃って未来に夢を求める活動を正常化させることができれば、戦争も核も考える必要のない世界、自然災害の少ない社会、豊かで健康的な社会をもたらすことができると信じる。「持続可能な環境の維持」の考えに支えられた、自然界のすべての生命を含めた理想的な環境の構築が可能になるであろう。

1.コロナ感染症法上の位置付け5類に移行
コロナウイルスの感染症法上の位置付けが2023年5月8日から、従来の2類からインフルエンザと同じ5類に引き下げられた。巷の感染状況は必ずしも改善され鎮静化したとは言えないが、WHOも世界的にも危機的な状況からは脱出したとして緊急事態宣言を解除したため、国内の感染鎮静化は達成していないが、今後は個人管理を重視することによって十分に対応可能と政府も判断したようだ。しばらくは、個人ベースでの注意が必要である。
東京都の新規感染者の動向は4月中旬以降増加傾向が現れるようになっている。第9波の発生は宣言されていないが、新変異株はEG.5への置換が進み、ワクチンの抗体効果の減少とインフルエンザの同時拡大が懸念され、感染拡大も続いているようだ。しかし、政府の感染状況の情報や管理の仕組みの大幅な後退と併せて、感染に対する庶民の関心度合いは薄れがちで町中でのマスク着用もどんどん少なくなり、自分たちの周辺で起きているコロナ感染への警戒心もなくなっているように感じられる。都内の病院ではコロナ感染者用の病床も満杯になり、一般療養者の病床確保に問題が生じるようになってきているというニュースが流れている。庶民の中では、どのように自主管理すればよいのか分からなくなっている人々も多くなっているのではないだろうか。3年の歳月苦しんだ悪魔の姿を我々の周辺から次第に消し去ることを望んでいるかのように「報じることも、考えることも、感じることも」社会全体が向き合わなくなってしまっている。政府も自治体も無関心になっているようだ。一方、コロナ後遺症により従来の生活に戻れていない人が増加している情報もある。コロナ後の労働者数の減少が公共のサービス提供に影響している話題も報じられている。
9月が過ぎたが、感染問題に関して社会的に問題になるような事態が報告されていない。それにしても、それらに関する情報が急に十分に把握できなくなってしまったのはどうしてなのだろうか。このような状態で国民一人一人の自主管理が適切に行われていると政府は考えているのだろうか。テレビも視聴率や収入源になるような情報でなければ関心を持たないらしい。テレビも四六時中、WBCやメジャーの情報、ジャニーズの情報、広告情報に明け暮れしている。平成時代に培われた「成金願望」が未だに社会に蔓延している寂しさを感じる。確かな情報を的確に庶民に提供し可能な限りこの危険性を除去する対策を実施する必要があるが、現状の感染情報では危機感が感じられる仕組みにはなっていかないため、安心感への期待が先行し安易に行動するようになっている。政府の対応も十分とは言えない。

2022年7月に、東京都の新規感染者数が4万人/日越えの過去最高40406人/日を記録した。第7波襲来までに3年近い歳月を経過したが、対策らしい対策を打てないまま自粛要請すら発令できない状態になってしまった。その間に、コロナは意のままに振る舞い続け、人を媒体として繁殖を繰り返した。
宿主の人間は重症化しなければ「コロナと共存してもよい」程度の諦め気味の安易な妥協で、この環境を受け入れようとしていた。宿主の人間の細胞がコロナに冒され利用されるのを我慢で耐えようとしているようだが、いつまで耐え続けられるのか。将来に問題を残さないのか。疑問だけが残る。これまでに、それに打ち勝つ人の知恵がなぜ生まれてこなかったのか。解決のための知恵をなぜ生み出そうとしなかったのか。我々の日常の行動の仕方にいくつかの疑問が残るが、それ以上のことを検討する状態には進まなかった。これも平成時代の特徴的な日本人の行動パターンの一つの表れだろうか。一定の年数が経過して問題点が露わになり進める道筋が自動的に決められてしまう結果にしかならないことがわかっていても、どうすることもできない状態になることで諦めてしまう。それを何年も繰り返し続ける。すべての面でコロナ対応と同じような考え方の展開が行われるようになってきている。
東欧ではロシアとウクライナの人間同士が戦争を始め、生活を壊し社会を破壊し自ら崩壊の道に進んでいる。戦う武器が不足すれば被侵略者ウクライナは世界に援助を求め、欧米からの支援物資としての武器が供給されると侵略者ロシアはその支援を理由に破壊活動を繰り返し、ミサイル攻撃で庶民を虐殺し、原子力発電所や水源としてのダムすら攻撃の対象となっている。終わりなき戦いは長期化の兆候を示し、コロナ危機と東欧での戦争が経済不況と生活苦の中へ世界の人々を導いている。しかし、国連を含めた世界の対応は、それぞれの陣営で戦争の支援を表明し、行動するが、局面を平和の方向に導く動きはできない状況になっている。戦争はいつ終了するのか未定のままである。さらに、中東での不安定化が報じられるようになり、イスラエルの新たな行動が準備されている。ここでも、世界的な不安定化を増大させる騒乱が再発するのであろうか。世界は一層混沌とする方向に進んでいる。
古今東西を問わず、人間社会では種々の問題が発生し、中には人類の存亡に関わる重大な事態に至る事件もある。現在、そのような事件が世界中で発生している。いずれの事件も、どの国においても、適切な対策が生まれていない。自然科学や社会科学、新しい技術、人工知能技術、デジタル技術、データ処理技術などの新しい時代を代表する科学や技術的な考え方が芽生え発達してきているが、それらの技術や考え方を駆使した新しい対策の実現や新しい生活環境が生まれていない。世界は次第に混迷状態に突入し、地球温暖化問題とも関連して地球崩壊現象の発生に繋がっていく予感すら感じられるようになっている。しかも、この不安定化に対応する国連の行動も無能力化している。
現在発生している事態の認識とその周辺で開発されている技術との対応を巧くマッチングさせる知恵が働いていないため、新しい技術を現在の困難な事態の解決に適応させる「人間の知恵」が結び付いていかない。苦労して知恵を働かせて困難な問題の解決を進める努力を怠り、安易な妥協や思い込みの結果を期待する行動に進もうとしている。現在遭遇している事態について、適切に分析し真の現象を認識できないために、科学的な原理原則を活用して一定の条件の下に論理的に得られる解に辿り着くことができていかない。
このような場当たり的で曖昧な方案と解とを定めて行動する結果、途中での条件の変化や設定した基準の誤りをリアルタイムに発見することができないで、事態が重症化するまで行動してしまうことになる。単なる時間の経過だけでは適切な対策や適正な結果は生まれてこない。的確な問題認識すらできなくなっている。試行錯誤を繰り返し知恵を積み重ねる努力が必要である。更に、日本では政界の宗教汚染が進んだ結果、客観的に物事を把握する能力を失っている。自然界での環境汚染、政界での宗教汚染が日本国民の生活環境に重大な課題を投じる事態に進んでいる。

20世紀後半に繁栄を誇った日本社会も平成30年間で破滅の道に進んでしまった。「政治の貧困」、「経済の無気力化」、「思考や知恵の欠如」などが進み、無力化した痛ましい日本の姿は、病気と戦う手段すら提供できない無防疫社会に変わり果て、社会インフラに関してもレベル水準が低く先進国と言えない惨めな姿を晒している。自らのワクチン開発も進まない。治療薬や常備薬もままならない。すべて海外で開発されたワクチンや治療薬に頼る以外に手段を持てない国になってしまった。「金さえあればなんとかなる」という平成時代の安易な考え方が、コツコツ努力して成果を実らしていく日本人独特の姿勢を失わせてしまった。
社会の仕組みも古ぼけてしまった。21世紀の基本インフラの一つであるデジタル化も十分でなく、デジタル化のための基礎インフラをも欠く日本では、システムの導入すら簡単に推進できなくなっている。情報に関する基本的思考の甘さ、システム開発の基本の考え方や情報処理の仕組みの不備が原因で緊急事態にも対応できない状態になってしまっている。金があっても物作りやシステム開発力が劣り、自力が不足する日本社会では、自ら仕組みやシステムを構築していく目的や手段を含めてすべての術をなくしてしまっている。金さえあればなんとかなる筈の「円」ですら円安で価値を下げ、世界的なショックを受けて国内の物価が急騰する事態を招いている。やがてドルも不足して必需品が欠乏し、生活に支障を来す恐れもある。しかも、これらの実態を認識できない人々が多くなっている。

日本には有能な人材が沢山いるが、政治や経済がそれらの人材を活用できない国になってしまった。デジタル庁を組織化しても、マイナンバー制度は遅々として進まない。システムの誤動作に不満を感じた人がシステム離れを起こす事態になっている。情報処理速度の遅れによって、コロナの感染速度に人間の対応速度が追いつけない事態にもなった。人の処理速度がコロナに負けており、簡単に対処できなくなっている。これらの諸問題も平成時代に政治や経済が犯した社会問題の一つであり、情報や情報処理に関する21世紀的思考の欠如が齎したものである。そのうち開発できる人材すら国内にいなくなり開発不能となるか、海外の人材活用が不可欠の事態になるか、開発を諦め没落する社会に進んでいくかのいずれかの道を辿ることになる。戦後輝かしい業績を上げた日本の経済力や技術力もどこかに消えてしまった。近くで見ることができなくなっている。
人間が滅びればコロナも滅びる。寄生者は宿主を変えるか、宿主と共に滅びるかのいずれかであるが、いずれの場合も宿主である人間は滅亡する。このような情けない日本の姿を国民は認識すらできなくなっている。認識するための判断基準や基本の考え方を失ってしまったからである。平成の社会で犯した「政治の罪」、「経済の罪」が種々の局面に現れて、次第に身に染みてきて途方に暮れる令和の日々が徐々に近づいているのを感じる。ウイズコロナの考えを基本に可能な限りの経済再生活動を持続させていると、やがて、コロナの弱毒化が自然に進み従来のような平穏な生活に戻れると確信しているようだがそのように巧く進むのだろうか。これらの可能性が立証されている訳ではない。
暗殺された元首相の国葬の賛否や宗教法人旧統一教会の存在が問題になった。平成30年間を通じて国力をここまで低下させた政府の首領を長期政権という理由から「国葬」にする根拠が生まれてこない。旧統一教会の信者の支援を得た自民党政権の多くの政治家は宗教汚染されており、日本の将来を自ら夢見、自ら語る能力も失い、昭和の時代に国民の努力で獲得した多くの国の富を消失させてしまった。そして、庶民が「幸福」を感じられない社会にしてしまい、多くの人々が「不幸」すら感じるような状態になってしまった。この平成30年間の悪政の責任はどの指導者がとったのか。誰もとっていない。誰もとろうとしてこなかった。この事態を認識できなかった平成の自民党の政治家達の中には「国葬」に値する政治家は一人も存在しなかったのである。更に、外来の宗教に簡単に汚染されるようでは政党自民党そのものの存在価値すら疑わしいことになる。
このような、政治家や経済界を含めた社会の指導層の「無感覚さ」、「責任感の欠如」、「愛国心の欠如」などが問題の根源であるが、与野党の区別なく日本の政治家や社会の指導層各自がその責任を感じ反省しなければならないのは当然である。しかし、豊かさに酔いしれて、次の目標や夢を持てなくなってしまった国民の自分たちの社会の現状と将来に対する「無関心さ」も問題にしなければならない。

2.コロナ感染発症現象

コロナの感染は、巷の無症状感染者が感染源になって感染を拡大させている。感染者が無症状や軽症者であっても、1日の病原菌の保有者が一定の規模を持続し続けていることが感染現象を頻繁に起こさせる要因になっている。どこかに存在する感染要因を利用して、新変異株や新しいウイルス性の病状が発生するきっかけが生み出される可能性が高く、庶民は生活に不安を感じながら暮らしている。新しい症状が現れると感染の拡大現象に繋がる危険性が生じ、医療環境の逼迫やその後の後遺症問題、経済活動への障害などを含めて人々の生活や産業活動に悪影響を及ぼすことになる。問題になっている「人口減少」に値する現象が発生することになる。このような危険要因を除去できてはじめて感染源の根絶が可能になったと考えることができる。それが現段階では達成されていない。
「ウイズコロナ」や「ゼロコロナ」で適切な解が安易に求められると考えたり、それしか対応手段がないと単純に思い込み、その考え方の妥当性を立証する行動すら行っていない。現在のような感染状態が続く限り新しい感染波が必ず発生する。現在、デルタ株からオミクロン株「BA.5」や「EG.5」、その他の新変異株への置換が進んでいる。新しい変異株の置換が一定規模まで進むと急速に感染拡大し、感染制御不能や更なる新しい未知領域に進むことになる。このことが世界規模的に繰り返し展開されて、集団免疫すら確立できない地球になってしまっている。内部の医療体制の整備と水際対策の適切な運用の重要性が不可欠になってきているが、国の対応が適切だと言えない状態にもなっている。政府の対応の不十分さが感染を拡大させている可能性も少なくない。
期待される唯一の手段はオミクロン株対応のワクチンの接種率を高めることである。逐次、実施される方向へ進んでいるが、各種対策が場当たり的でバラバラであるため、ワクチン接種率を高めるための努力を行う一方で、経済再生のための旅行支援策の推進や水際対策の大幅な緩和、外国人の観光旅行団体の受入制限撤廃などの感染拡大要因となる政策を積極的に同時並行的に推進し、意味不明な感染対策を進めてきたのが現在の感染対策の手段である。これでは、感染抑制よりも感染拡大を持続的に行うことになり、感染対策の問題解決は進まない可能性がある。政府が推進している政策として、半年後、1年後の社会の感染環境の変化の見通しを国民に説明し了解を取るべきだが、それすらできていない。ということは、訳の分からない場当たり的な政策の推進であり、先が見通せない状態になっていると言える。今後の各種行事に合わせた庶民活動の活発化を考えると、政府の感染対策の失敗に繋がり、感染拡大や持続性の期間の規模が大幅なレベルとなり、危険性が高まる恐れがある。少なくとも、感染波の到来は続くものと考えねばならない。

東京都の新規感染者数は、2022年の8月、9月は1週間前の平均値に比べて0.6~0.8の割合で減少を続けていたが、10月になって週間平均で3000~5000人/日のレベルで下げ止まり傾向が現れるようになった。11月に入り、政府が推進する全国旅行支援や水際対策の大幅な緩和が実施されると、前週比で1.1~1.2倍の増加で感染拡大が進むようになり、12月は1.2~1.3倍の割合で感染拡大が進んだ。この状態が進むと、感染拡大は1.5~2.0倍の規模に増加し、やがて指数関数的拡大現象に発展する可能性が大きかったが、政府は自ら制限する対策を撤回し個人の自主管理に委ねる方針に変更し、感染対策よりも経済再生を優先する対策に向かっていくことを決めた。
変異株がBA.5から新変異株EG.5への移行が進むと、感染拡大は指数関数的に増大するようになり、従来の規模を超える感染拡大となる可能性が生じる。その後も感染傾向は拡大を続けており、世界ではパンデミックは続いている。一説では、東京都の新規感染者数は第9波の規模になっていると言われている。現在のようなコロナの「自然現象任せ」の対策では、国内や世界の鎮静化がいつ可能になるのかは分からなくなる。
第9波への再感染が始まると、今までと同じ感染波の繰り返しを経験することになり、ワクチン接種の継続的持続と適切な治療薬や常備薬が整うまで鎮静化は当分期待できないことになる。国民の感染への緊張感もやや薄くなり、ワクチン接種意欲も減退している。感染状況の分析も不十分なまま先の見通しも立たない状態で、場当たり的に経済再生を狙って人の行動を活性化させたり、水際対策を大幅に緩和させる政府の判断には再び感染を拡大させる危険性が潜んでいる。国民の活動の活発化を考えると、感染波襲来の繰り返しにより感染者数が大幅に増加し、感染リスクへの懸念とその後の後遺症問題などが顕在化し、経済活動や国民の生活への悪影響と医療逼迫による社会問題が一層多発する危険性があり、国民一人一人が感染に注意し行動することが重要となる。
しかし、政府の対応は、感染情報を希薄にし、庶民のコロナストレスを緩和したり、消滅させることを狙っているような行動が多くなっている。テレビ業界などもこの対応に便乗して感染情報の提供などを少なくしている。今後、物価高騰や企業倒産の増加、生活困窮者の増加なども一層厳しいものになり、若者の失業率の増大や公共機関のサービス提供の悪化などが発生するようになり、これらがコロナ危機と重なると、岸田政権への支持率は一層低下し危機的な状態になることが予想され、社会の不安定化が増すことになる。将来の軍備の増強や原発の再開発などのようなレベルの話ではなくなってくる。自民党政権では耐えることが不能になる事態になるかも知れない。日本の社会を支える人材がどこにいるのか。もし適切な人材がいなければどうするのか。日本国は間違った方向に進まないように国民自らがしっかり考えねばならない時期が来ているのかもしれない。
感染による死者数や重症者数が減少しても感染波の繰り返しが続く限り、日常の経済活動を維持するに必要な健全な労働者の確保が困難になり、経済的には労働人口の減少と同じ状態が現れる。各種交通機関の運用や保守、インフラや各種設備の保守や管理、適切なサービスの提供などの不具合いが多発するようになる。社会インフラの適切な運用に問題が生じたり、通信能力の低下や情報処理能力の低下、輸送能力の低下などが頻度高く発生するようになると、金融システムや交通システム、サプライチェーンシステム、セキュリティシステム、教育システムなどが円滑に機能しなくなり、社会混乱が発生し、経済的不況、世界不況に繋がる恐れが生じるようになる。政府が感染対策から一歩後退すると、これらの事態への対策は国民一人一人が進めなければならなくなる。安心できる社会になったのではなく、危険状態が継続している状態で政府の対応が後退したという自覚を持つことが重要となる。


感染対策に失敗し感染波が繰り返し拡大し始めると、感染はロジスティック特性に支配されるようになり感染環境の改善が少なくとも数ヶ月先延ばしされることになる。結果によっては経済の安定化に必要な期間が数年先になる恐れがある。現在利用しているワクチン開発やワクチン接種の考え方をそのまま継続してよいのかの問題などを含めて感染対策を根本的に見直す必要性が生じるかも知れない。少なくとも、世界規模で考えると、感染対策は「手遅れの状態」になっていると言える。
ここまでくると頼れるのは、国民の個々の知恵を活用して、それぞれの領域で、家族の被害や個人の被害、グループの被害などを最小限に食い止めることに努めながら、次の「鎮静化のチャンス」に備えて社会免疫獲得の準備のためにいつまで我慢可能かが重要になる。そのためには適切なグループの形成とグループへの情報の提供、グループ間の情報の共有が不可欠になる。
ウイルスの学習効果が優れていて、人間の感染に対する愚かな行為が繰り返えし続けられると、災害の繰り返しで人々は草臥れて、あげくの果てに滅亡していくのに等しい現象となる恐れがある。一番の心配事は感染波の繰り返しを早急に防止し、コロナの弱毒化をいつ実現できるかである。万一、失敗すると「感染波の永遠の繰返し」という事態を招き、長期にわたる異常環境を強要されることになり、人類滅亡という事態に発展する可能性も生じる。
これらの対応には政治的能力と技術的対応力が問われるが、日本の政治家のパンデミック対応能力がそれほど高くないのが問題である。特に、ミッション型の問題に対応する認知能力、解決能力レベルが余りにも低すぎる。岸田内閣の顔ぶれを見ても感染対策能力やその他の関連する社会問題を解決する能力を発揮できるような「期待が持てる閣僚」が見当たらない。やる気があるのかどうかも疑わしい大臣が多すぎる。首相や大臣職は名誉職ではなく、プロ政治家の優れた実務家の集まりでなければならない。しかし、首相をはじめとする大臣群の能力は、ミッション型の問題に対応できる能力が育成されなかった世代の代表的な特徴を曝け出している。このままではコロナ以外の問題をも含めて日本社会で発生する諸問題を解決していけるのかが心配である。国内には、コロナ対策以外にも、国防対策、物価・エネルギー・食料・人口などの経済対策、災害対策、社会構造改革、経済の持続的成長をもたらす産業構造改革などの諸問題が山積している。感染問題も適切な対策が打ち出せないまま感染波の襲来を繰返し、社会に集団免疫が確立されず、この事態がコロナが弱毒化されるまで続くことになると、繰り返しが永遠化する可能性すらあり懸念される。
これがパンデミックの恐ろしさであって、「ウイズコロナ」、「ゼロコロナ」などの安易な考え方や重症者が一定の数値にとどまるならば適宜経済再生に重点を移す考え方の短絡的な導入などが大きな危険性を伴うことになるという認識を忘れてはならない。パンデミック時のコロナ対策の検討には中長期的な観点に立った思考が重要であり、感染環境の変化に対応して対策案を刻々見直し、実施内容、実施順序などを柔軟に修正する姿勢が必要となる。対策立案時には、パンデミック発生の原因やグローバル環境での世界経済の構造的問題などと関連する基本課題を含めて検討し立案することが重要である。ある種の期待値を得るための「曖昧な根拠に基づく対策」は慎むべきである。人間の好みに合わせる短絡的な対策ではコロナが喜ぶ内容となり、スピード感に勝るコロナが必ず勝利することになる。場当たり的な対応をやめて、問題点を整然と見直し的確なデータに基づき理論的に適切な対策の立案とその対策を実施する手順、スケジューリングを的確に行うため、総合化された計画書の作成とその組織化が重要となる。一国だけでは対応不能なほど複雑化した感染環境に対して、対策実施を世界的規模で実現させることは容易なことではない。

2.ウクライナ動向と世界情勢

2022年2月末にロシア軍がウクライナに侵攻する事態が発生して以来1年が経過した。開戦直後から大きな戦争に結びつかなければよいがと懸念していたが、懸念が現実のものとなった。愚かなロシアの指導者やロシア国民がパンデミックの時期に陥りやすい現象の一つにはまってしまった。戦乱が大きくならなくても単発的な争いが長時間持続するようになると、世界経済への影響は避けられなくなる。まず、ロシア国民やウクライナ国民が戦火と経済的困窮に遭遇し、やがてその波がコロナ菌と共に世界の経済活動に拡散していく。コロナの影響や戦火が短期間に収まっても、経済的な影響は数年間に及ぶことになる。エネルギー問題や世界の物流の流れが乱れ、生活必需品の不足や物価の高騰が続く事態になる。世界の庶民の生活は厳しいものになるだろう。
日本でも、平成時代以降の経済の停滞や円安、賃金の低迷などアベノミクスの負の遺産の影響を受け、繰り返し発生する急激な物価高やエネルギー高の影響が庶民の生活に大きな負担を強いる環境に進むであろう。平成時代の経済政策の失敗が令和の時代になって日本国民の上に大きな負担となり、国内で解決していける環境や能力を失った日本の社会は世界の不安定化に翻弄されることになるであろう。その中でも我慢に耐えられない一部の人々は生きることも困難になる時代に突入するであろう。戦争とコロナの影響などが長引けば、多くの庶民が極貧という苦しい生活を強いられることになり、戦時と変わらない社会環境になる恐れがある。
ロシアの侵略行為に対して国際的な経済制裁がロシアに加えられているが、ロシアの残虐な行為は停止するどころか、激しさを増している。ロシアは侵略行為も避難民の世界への拡散もネオナチという言葉で正当化しようとしている。国連の非難決議にも拒否権を行使した。ロシアの侵略行為は長期化するだろう。更に、中東では歴史的な問題を引き継いでいる事件が発生した。これらの問題が局部的な争いであっても長期化すると、第3次世界大戦に発展する可能性もある。今後の世界は不安定が増す方向に進んでも、健全な安定化の方向に進むことは期待できないであろう。

ロシアはネオナチを仮想敵国として、100年前のナチと同じ行動を自分たちが行っている自覚がなくなった。周辺国を含めて世界の国々はこの一世紀の間に成長し、21世紀の感覚を取り入れ進化した。しかし、新しい時代に相応しい指導者が得られなかったロシアは1世紀前の考え方から成長できないまま、2~3世紀前に遡る野蛮な愚行に走ってしまった。
ロシアは国連の常任理事国の立場にある国である。「虚飾と傲慢」の充満した社会で、ロシアの指導者も国民も、世界のリーダとして自国や世界を正しく指導する能力を失ってしまった。拒否権を持った常任国の役割が果たせない国になってしまった。自国にも、他国にも多くの犠牲者を発生させ、世界に不幸の種を散乱させ続ける国になってしまった。やがて、ロシアは敗北するであろう。ただ、そのための時間が必要であり、その間に世界では多くの損失が発生するだろう。
百年前に我が国も世界戦争を経験し、多くの都市や国民が戦争による被害を受けた。原子爆弾による放射能の影響も受けた。悲惨な社会状態から現在の社会に復興させるのに30年以上の歳月を必要とした。戦争はそれほどの莫大な資産や人命を数週間や数ヶ月の短期間で破壊してしまう。しかも、一部の傲慢な指導者のエゴや国民の無感覚な迎合的行動が原因で発生することがほとんどである。過去の日本もそうであった。ロシアとウクライナの戦争も同じような結果になるであろう。21世紀になっても、2、3世紀過去の幻想に支配されている政治指導者や宗教指導者、歴史と共に成長していけない人間の存在が人類の歴史に一つの汚点を残し、過ちを繰り返し続けている。ここにも、持続可能な社会環境の確立が求められる人類の課題がある。